ぶらっと清水【第17回】清見寺と海外のつながりと・・・向井氏!? / The international connection of Seikenji Temple... and who exactly is Mr. Mukai!?
- 山内 真一
- 9 分前
- 読了時間: 14分
<今日のお散歩まとめ>
清見寺からの放送で、駿河湾を一望できる絶景が紹介され、海が世界とつながっていることを感じる場所として語られた
江戸時代に朝鮮通信使や琉球国の使節団が駿府の徳川家康に謁見するため清見寺を通過した歴史が紹介された
琉球の具志頭王子が旅の途中で亡くなり、故郷が望める清見寺の高台に墓が建てられた
本堂には「永世孝享」と書かれた大きな扁額が掲げられ、琉球の使節団が1790年に掲げたもので永遠の敬意を表している
清見寺には使節団に関する詩文や祭文、法要の資料などが宝物館に保存されている
清見寺は琉球や韓国など外国との友好関係を築いた歴史的に重要な場所であることが強調された
境内には「向井氏供養」と書かれた供養塔があり、戦国時代から江戸時代にかけて活躍した水軍の武将・向井氏のものと紹介された
向井氏は伊勢出身で、武田信玄に仕えて駿河で水軍を統率し、のちに徳川家康にも仕えて幕府の水軍において重職を担った
正重・正勝・政綱の三人の武将が供養されており、清水の海と向き合う場所に供養塔が建てられた背景が語られた
The episode was broadcast from Seikenji Temple, highlighting the panoramic view of Suruga Bay and the feeling that the sea connects Japan to the world
It introduced the historical visits of Korean and Ryukyuan envoys during the Edo period who passed through Seikenji to meet Tokugawa Ieyasu in Sunpu
Prince Gushichan of the Ryukyu Kingdom passed away during his journey and was buried at Seikenji on a hilltop where he could gaze toward his homeland
Inside the main hall is a large plaque inscribed “Eisei Kōkyō,” meaning “eternal reverence,” presented in 1790 by a Ryukyuan envoy as a gesture of lasting respect
The temple preserves poems, ceremonial texts, and other materials related to the diplomatic visits in its treasure house
Seikenji is emphasized as a historically significant site of international friendship with Ryukyu, Korea, and other nations
In the temple grounds is a monument marked “Mukai Memorial,” honoring naval commanders from the Sengoku to Edo periods
The Mukai family originated from Ise and served Takeda Shingen in naval operations, later joining Tokugawa Ieyasu’s navy
The three memorial towers are believed to commemorate Mukai Masashige, Masakatsu, and Masatsuna, built overlooking the sea where they once commanded fleets
The episode concluded by reflecting on Seikenji as a place that still honors those who shaped the region’s history
【提供】
いつかきっと会えるよね、鈴与グループ。
日の出で遊ばう、清水港振興。
静岡商工会議所の、魅力ある清水を創る会。
静岡の観光振興を推進する、公益財団法人するが企画観光局。
【ぶらっと清水 第17回】
「ぶらっと清水」~清見寺と海を越えたつながり~
波音ちゃん:みなさんこんにちは!今週も清見寺からお届けしますよ〜。前回の放送では、朝鮮や琉球からの使節団が、駿府の徳川家康に会うために訪れていたお話でしたね。
中でも、琉球国の具志頭王子のために、故郷を偲べるような眺めの良い場所にお墓が作られたという話が印象的でした。
本当にいい景色ですよね!ここから海を見ていると、沖縄はもちろん、その向こうの中国、東南アジア、インド、そしてヨーロッパまで、海って繋がってるんだなあって感じます。
椿原さん:昔の人たちも、同じようにこの海の広がりを感じていたのかもしれませんね。家康も、具志頭王子も、きっと。
波音ちゃん:さて、そんな琉球の使節団に関してですが、記録のようなものって清見寺に残っていたりするんでしょうか?
椿原さん:ありますよ。本堂に入ると、朝鮮通信使が残した漢詩の掛板が並んでいるのですが、その真ん中に大きな木の扁額が掲げられています。「永世孝享(えいせいこうきょう)」と書かれていて、意味は「これからもあなたを敬い続けますよ」というもの。これは1790年、具志頭王子の子孫が掲げたものなんです。
波音ちゃん:素敵ですね…!具志頭王子のお墓を建てて丁重に祀ったことも、琉球との良好な関係につながったんですね。
椿原さん:さらに、法要に使われた道具や祭文なども清見寺の宝物館に保存されています。清見寺は当時の外交の窓口とも言える、歴史的にもとても重要な場所なんです。
武田から徳川へ、清水の海を駆けた向井氏とは?
波音ちゃん:あ、境内にたくさんのお地蔵さんが並んでいますね。あそこ、「向井氏供養」と書かれている石塔がありますよ。向井氏って、どんな人だったんでしょう?
椿原さん:並んでいる三つの大きな五輪塔ですね。向井氏というのは、戦国時代の水軍の武将です。武田信玄が今川氏を滅ぼしたときに仕えていた海の武将たちで、いわば“海の侍”ですね。
波音ちゃん:あっ、以前の放送で出てきた「廻船問屋」の話にも登場しましたよね?
椿原さん:その通り。向井氏はもともと伊勢(三重県)の出身で、武田氏が駿河に進出した際にスカウトされました。当時の武田家には海がなかったので、彼らのような水軍が必要だったんですね。
波音ちゃん:それが、清水の港に水軍を持つきっかけだったんですね。
椿原さん:そう。そして武田家が滅んだ後、今度は徳川家康に仕えるようになります。当時の当主・向井政綱は、武田水軍の中核として活躍したあと、徳川幕府の水軍武将としても大きな役割を担いました。
波音ちゃん:一度敵だった徳川に、その後仕えるなんて、すごい適応力と実力ですね!
椿原さん:政綱の父・正重と義兄・正勝は、徳川家との戦で亡くなってしまったんですが、政綱は生き延びて、江戸時代初期に清水を拠点に水軍の中心人物になりました。
波音ちゃん:そして、今もこうして大きな供養塔が残っているんですね。
椿原さん:ええ、彼らの活躍を後世まで伝えるため、清水の海が一望できるこの場所に建てられたと考えられます。供養塔には名前が書かれていませんが、向井正重・正勝・政綱の三人を祀っていると考えられますね。
波音ちゃん:清見寺って、ただのお寺じゃなかったんですね。海外との繋がりも、歴史に名を残す人物たちも、みんなここに足跡を残しているんだなぁと感じました。
椿原さん:そうですね。この土地を見守ってきた人々を敬う心が、今もこうして息づいています。
【観光案内ガイド風】
ようこそ!清水へ!
今日は、駿河湾を見下ろすこの絶景の中にたたずむ、歴史あるお寺「清見寺(せいけんじ)」をご案内します。
まずはこちらをご覧ください。広がる駿河湾と、その向こうに続く青い水平線…。私がこの場所を大好きな理由が、まさにこの景色にあります。沖縄、そして中国、東南アジア、さらにインドやヨーロッパへと続く海の道。海はすべてを繋いでいる——そう感じることができるんです。きっと、昔の人たちもこの景色を見て、遠い国とのつながりに思いを馳せたことでしょう。
さて、この清見寺は、実は国際的な交流の場でもありました。江戸時代には、朝鮮や琉球からの使節団が通り、そのたびにここで歓迎を受けました。中でも琉球国の具志頭王子(ぐしちゃんおうじ)は旅の途中、この地で亡くなり、清見寺の高台にお墓が建てられました。故郷を望むことができるように、という配慮が込められています。
本堂に入ると、「永世孝享(えいせいこうきょう)」と書かれた大きな扁額(へんがく)が掲げられています。これは、1790年に琉球王朝の使節団が掲げたもので、「これからも末永く、あなたを敬い続けます」という意味を持つ、深い友情の証です。
この清見寺には、そうした友好の証として、使節団が残した詩や法要に使われた道具、祭文などが宝物館に大切に保管されています。清見寺は、まさに日本と世界を結んだ歴史の交差点なんですね。
さて、境内を少し歩いてみましょう。お地蔵様が並ぶ中に、「向井氏供養」と書かれた石碑があります。実はこれは、戦国時代から江戸時代にかけて活躍した「向井氏(むかいし)」という水軍の武将たちを供養するための塔なんです。
向井氏はもともと伊勢(現在の三重県)の出身で、武田信玄に仕えて水軍の武将となりました。信玄が駿河に進出した際、海が必要になり、向井氏をスカウトしたのです。その後、武田家が滅んでも、向井政綱(まさつな)は徳川家康に仕えて、水軍の要職を担いました。
ここに並ぶ三つの供養塔は、向井正重(まさしげ)、正勝(まさかつ)、そして政綱(まさつな)の三人を祀ったものと考えられています。いずれも清水の海に深く関わり、その功績が今日まで語り継がれているのです。
この清見寺には、地元を愛し、海を渡り、歴史を築いた人々への敬意が、今も静かに息づいています。
Welcome to Shimizu!
Today, I’ll be guiding you through the historic Seikenji Temple, a spiritual and cultural landmark overlooking the magnificent Suruga Bay.
Just take a moment to enjoy the view. Isn’t it breathtaking? From here, we can imagine the sea stretching all the way to Okinawa, China, Southeast Asia, even as far as India and Europe. The ocean connects us all, and that sense of connection is exactly why I love this place. I believe people in the past—like Tokugawa Ieyasu or the Ryukyuan prince Gushichan—must have felt the same way.
Seikenji wasn't just a temple; it was a diplomatic crossroads. In the Edo period, envoys from Korea and the Ryukyu Kingdom visited this very site. One of the most touching stories is that of Prince Gushichan, who passed away during his journey. His grave was built here, overlooking the sea—so he could forever gaze toward his homeland.
Inside the main hall, you’ll find a massive wooden plaque inscribed with the words “Eisei Kōkyō,” meaning "eternal respect and reverence." It was presented in 1790 by a descendant of the prince. This plaque symbolizes the deep bond between Japan and the Ryukyu Kingdom.
Seikenji’s treasure house holds many historical artifacts—poems, ceremonial tools, and writings—all tied to these visits. It’s a remarkable site where you can feel Japan’s ties to the world, right here in Shimizu.
Now, let’s walk into the temple grounds. You’ll notice many Jizo statues, and over there—look—a stone monument marked “Mukai Family Memorial.”
The Mukai were powerful naval commanders who served both the Takeda and Tokugawa clans. Originally from Ise (modern Mie Prefecture), they were recruited by Takeda Shingen to lead his newly formed navy in Suruga, since his inland province had no sea access.
After the fall of the Takeda, Mukai Masatsuna survived and went on to serve Tokugawa Ieyasu, becoming a key figure in the shogunate’s naval operations.
These three stone towers are believed to memorialize Mukai Masashige, Masakatsu, and Masatsuna—warriors who played vital roles in maritime development during Japan’s transition from the Warring States period to peaceful Edo rule.
Seikenji Temple is not just about religion—it’s a living tribute to the people who shaped Japan’s history, both on land and across the sea.
【放送内容のテキスト文面】
今週も引き続き、清見寺からスタートです。
前回の放送では、朝鮮からの通信使や、琉球国からの使節団が、駿府の徳川家康に会うために静岡までやってきていたというお話がありました。
琉球国の具志頭王子(ぐっしゃんおうじ)のために、故郷まで見渡せるような景色の広がる、この清見寺の一番上の部分にお墓を作ったっていうことでしたね。
しかし本当にいい景色ですね。
私がここからの眺めが、あの本当に好きだっていうのは、沖縄もそうなんですけども、その向こうの中国であったりとか、東南アジアであったりとか、それから、そこをずっとまっすぐ渡っていけば、インドであったりとか、あのヨーロッパそういうところまで繋がっている、海は繋がっているっていういうのを、すごく感じることができるものですから、ここ大好きなんですよね。
おそらく、昔の人たちもそれを感じていたし、徳川家康もそれを感じていたし、具志頭王子も、今も感じているんじゃないかなっていうふうに思います。
そうですね。
どこまでも広がる海を見ていると、この先に他の国があるのかと、ロンアを感じますね。
ところで、琉球国の通信使の話しに戻りますが、朝鮮通信使が政権時に来たときの漢詩の記録のように、琉球国からの通信使が来たときの、当時の記録というのは何か残っていたりするんでしょうか。
清見寺さんの本堂の中に入りますと、朝鮮通信使の残した漢詩を書いた掛板というんですけども、それが並んでるんですけども、その真ん中にですね、どうでしょう横幅が二、三メーターあるような大きな扁額といって、大きな木の板がかかっています。
それには大きな太い字で、永世孝享(えいせいこうきょう)って書いてあります。
聞いたことがない言葉ですが、どういった意味が込められているんですか。
それは、琉球通信使が江戸時代に5回ぐらい、幕府まで友好使節団を出してると思うんですけども、1790年に具志頭王子の6代の子孫の方ですよね「ちょうよう」っていう方だったと思うんですけども、その人が通ったときに、この扁額を掲げてます。
文字の意味は永世生、これからもずっと敬い、あなたのことを敬い続けますよ。という意味の扁額を掲げています。
旅路の途中でなくなってしまった具志頭王子のために、景色の良いところへお墓を建てて、丁重に祀ったことも、琉球国とも良い関係を築けた一つの要因になってるかもしれませんね。
この本堂に飾られている扁額からも、それが感じ取れる気がします。
それとかね、通るたびに法要を行っているものですから、その法要に使われたいろんなものであったりとか、祭文といって読む内容を書いたものであったりとか、そういうものも清見寺さんには伝わって、宝物館に収められております。
ですので、この清見寺っていうのは沖縄、琉球国もそうですけども、韓国もそうですけども、幕府と当時の海外との友好の場所になったという、そういう重要な、世界、日本史の中でも重要な場所に当たると思います。
確かに、身近にあった清見寺が、こんなにも歴史的に重要な海外との繋がりを見ることができる場所だとは知りませんでした。
これを清水に住んでいる人は、ぜひ知っておくべきことですね。
では、今度は階段を下って、境内の中を見ていきましょう。
たくさんのお地蔵さんが並んでいますね。
あれ、あそこに向井氏供養とと書かれたものがあります。
向井氏を供養するもののようですが、向井氏とは一体どなたなんでしょうか。
はい、三つ、すごく大きな墓石って言いますかね、供養塔、五輪塔が並んでますけども、単純に向井氏っていうふうに書いてありますけどもね、向井氏っていうのは、武田信玄おりますよね。
武田信玄が今川氏を滅ぼしたときの、水軍、当時は水軍、海賊とも呼んだんだんですけども、その水軍の中の武将です。その向井氏の墓塔になります。
お墓自体は、江戸時代の初期の形をしてるんですけども、それでおそらく供養塔っていう表記の仕方をしてるんじゃないかなっていうふうに思いますね。
武田の時代の向井氏というと、以前、このぶらっと清水の廻船問屋の回でも出てきた名前ですね。
この向井氏についてもう少し教えてください。
じゃ、向井氏のお話をしましょうかね。
はい、向江氏っていうのは、元々伊勢の国三重県の向井っていう山の辺りにあった地名をとった武士なんですよね。
ですけども水軍、海賊、船を使った侍ですよね。として成長をしてくるんですけども、武田信玄が駿河に行くよう取ったときに、武田氏ってのは山梨県ですから、海がなかったですよね。
それで海を手に入れたということで水軍を編成したり、今川氏の水軍があったんですけども、武田氏はそれに加えて、伊勢の国の水軍の向江氏それから小浜氏をスカウトしてくるんですよね。
それで、武田氏の水軍となって、清水の港に戦用の船といいますか、その当時は戦用の船であり、交易用の船でもあったんですけども、それを操っていました。
今川氏に勝った武田氏が京都まで物を運ぶための航路を広げていくためにスカウトしたのが向井氏と小浜氏でしたね。
海賊、水軍として北条氏とも、戦をしたりとかしていたんですけども、武田信玄が亡くなって後を継いだ武田勝頼、頑張っていたんですけども、天正の10年ですから、1580年に織田家に滅ぼされてしまいますよね。
武田家は滅んだんですけども、この向井氏は武田家と一緒に滅んだんではなくて、徳川氏からスカウトを受けて、徳川家康の配下になっていくんです。
武田氏が負けて滅んでしまった後は、今度は徳川家からスカウトされたんですか。
武田家に続いて、徳川家からも呼ばれるとは、向井氏はかなり優秀だったってことなんですかね。
その当時ですね、向井正重(むかいまさしげ)という人がお父さんで、その息子に政綱(まさつな)という者がいて、もう1人義理のお兄さんの正勝(まさかつ)という3人がいたんですよ。
正重と正勝は、天正の確か7年だったと思いますね。持船城を守っていたときに、徳川家康に攻められて、討ち死にをしてしまっています。
政綱が生き残って、武田家の水軍の長として、発展をしていくんですけども、その後に徳川氏に仕えて、徳川幕府の水軍の重要な武将として発展をしていきます。
なるほど。一度徳川家に攻められたものの、そこから立て直して、徳川家の水軍の重要なポストに就いていたんですね。
ここに今、三つ墓塔がありますけども、おそらくは、江戸時代の初めくらいに駿河の国だから、清水の湾に水軍の船を浮かべて活躍をしていた向井氏を供養するために、もうその当時は幕府の人間になっておりましたので、江戸、それからちょうど神奈川の三浦半島に領地を持っていたんですけども、そのそちらに移ってはいましたけども、駿河、それから清水の港に水軍を置いておいたことを祈念をして、それで清見寺に供養塔を建立したってふうに考えられます。
そうなんですね。
武田家の時代に清水に来て、徳川家の時代にかけて、清水を中心に水軍の発展に尽力した向井氏が、その頑張りが認められて、現在まで供養塔という形で残されているんですね。
今見ても、大きな供養塔ですよね。
おそらくは、ここも山門を通して、はい、駿河湾、それから、大海原を見ることができる場所ということで、ここに供養塔を置いたんじゃないかなと思います。
今ここにね、あの向井氏の供養塔としか書いいないんですけども、やっぱり伝聞とかでは、誰々のお墓っていうことは言い切れなかったんじゃないかなと思うんですけども、やっぱり僕は歴史を紐解いておくと、まず、重要なのは政綱ですよね。中興の祖ですよね。
やっぱりそれから、持船の戦闘で亡くなった正重と、正勝、その3人を、はい、示しているんじゃないかなっていうふうに思います。
この清見寺には、この地に関わった人たちを敬う気持ちにあふれたものが、たくさんあるなと感じました。