ぶらっと清水【第14回】巴川河口部はあらゆるもののジャンクション / Where All Paths Meet: The Junction at the Mouth of the Tomoe River
- 山内 真一
- 6 日前
- 読了時間: 15分
<今日のお散歩まとめ>
清水港は古代から現代に至るまで交通と物流の要所であり、特に巴川河口部は陸路・水路の交差点として重要な役割を果たしてきた。
巴川河口部には旧東海道や現在の国道150号線、甲斐の国からの道、海路の「海の東海道」が交差し、江尻城もこの地点に築かれた。
清水銀座商店街には江戸時代の問屋「寺尾家」の跡があり、今も鯨のモニュメントがその歴史を示している。
商店街を東へ進むと鍛冶町や辻町など、かつての職人町が続き、江尻宿の範囲となっている。
江尻の宿場町には多数のお寺があり、それぞれ歴史があり、街道からの参道が印象的で、散策に適している。
巴川は1974年の七夕豪雨で氾濫し、大谷川放水路が整備されたことで現在は東静岡方面に水を逃がす仕組みがある。
過去の水害対策は中世や江戸時代にも存在した可能性があり、地元の寺には室町時代の津波記録も残されている。
巴川の治水と自然災害への備えの歴史は地域理解に重要で、今後の災害への備えにもつながると考えられる。
Shimizu Port has served as a vital hub for transportation and logistics from ancient times to the present, with the mouth of the Tomoe River acting as a key junction where land and sea routes converge.
The Tomoe River estuary connects the old Tokaido Road, present-day Route 150, roads from the Kai region (now Yamanashi), and maritime routes known as the "Sea Tokaido"; Ejiri Castle was also strategically built at this location.
The Shimizu Ginza shopping street is home to a monument of a whale marking the former site of the Terao family, a prominent merchant house from the Edo period.
Heading east from Ginza leads to Kajicho and Tsujicho—once artisan districts and part of the historic post town of Ejiri.
Ejiri was known for its many temples, with picturesque approaches branching off from the old highway; each temple holds unique historical value, making the area perfect for cultural walks.
The Tomoe River flooded during the Tanabata Torrential Rain of 1974, prompting the construction of the Otani Floodway, which now diverts excess water toward the East Shizuoka area.
Historical flood control efforts likely existed in medieval and Edo periods; tsunami records from the Muromachi era are preserved in local temples, such as Kaichoji.
The history of river management and natural disaster response in the Tomoe River area is crucial for understanding the region and preparing for future risks.
【提供】
いつかきっと会えるよね、鈴与グループ。
日の出で遊ばう、清水港振興。
静岡商工会議所の、魅力ある清水を創る会。
静岡の観光振興を推進する、公益財団法人するが企画観光局。
【ぶらっと清水 第9回】
波音ちゃん:今日のお散歩は、また巴川のほとりに戻ってきました~!前回は、清水港が古くから物流の拠点だったってお話でしたよね。
椿原さん:はい、まさに。港町としての清水の歴史、奥が深いですよ。
波音ちゃん:歩いててふと思ったんですけど、この巴川の河口周辺って、いろんな道が交差してるような…まるでジャンクションみたいじゃないですか?
椿原さん:いいところに気がつきましたね。実はその通りで、古くからこの辺りには道が集中してたんですよ。江戸時代やそれ以前の旧東海道もそうですが、西から来ると安倍川を越えて、真っすぐ東に進み、巴川の河口でちょうど海岸線に出るんです。奈良時代の東海道を継承してるとも言われています。
波音ちゃん:なるほど〜!まっすぐな道が、自然と河口に導かれてるんですね。
椿原さん:さらに、今の150号線もそうですね。浜松方面から海沿いに来て、三保半島の付け根で北上して巴川の河口に合流する。甲斐の国、つまり山梨方面からの道も、昔はこの辺りを目指して通じていたんですよ。
波音ちゃん:陸の道だけじゃなくて、「海の東海道」もここに集まってたんですね!
椿原さん:はい、清水港や江尻港を目指して船も集まりました。だからこそ、河口部には江尻城が築かれたんです。古代から現代にいたるまで、巴川の河口はまさに交通と流通の結節点だったんですよ。
波音ちゃん:すごい場所なんですね、巴川って!
椿原さん:ええ。まさに、陸路と水路が交差するハブのような場所です。
波音ちゃん:さてさて、再びフェルケール博物館のあたりまで戻ってきましたね。今度は、巴川を上流に向かって、清水駅の方へ歩いてみましょう!
(歩いて…)
波音ちゃん:ここは清水銀座商店街ですね。椿原さん、このあたりって昔はどんな場所だったんですか?
椿原さん:今でこそ商店街ですが、江戸時代にはここに寺尾家という問屋がありました。石碑と一緒に鯨のモニュメントがあるのをご存じですか? あれが寺尾家跡なんです。
波音ちゃん:えっ!あの鯨モニュメントの場所だったんですか!今まで何気なく通ってましたが、そんな歴史があったなんて。
椿原さん:今川家の時代に活躍した廻船問屋・小柳津藤次郎や、商人の宿を営んでいた寺尾家…この辺りはそういった人たちが町を支えていた場所です。
波音ちゃん:ここに「英国製生地」と書かれた看板がありますね。この角を曲がると…?
椿原さん:はい、そのまま東へ進むと鍛冶町など、昔の職人の町並みが続いています。JR清水駅を越えたあたりが「辻の町」で、そこまでが江尻の宿場町になります。
波音ちゃん:江尻って、お寺も多いですよね。
椿原さん:そうですね。街道からちょっと入ると、立派な参道と歴史あるお寺がいくつも並んでいますよ。ひとつひとつ見て歩くと、趣があって面白いですよ。
波音ちゃん:次のお散歩のテーマは「お寺めぐり」でも楽しそうですね!
波音ちゃん:ところで、ちょっと気になることがあるんです。巴川って、雨がたくさん降るとすごく水かさが増して、溢れそうになることがあるじゃないですか。
椿原さん:ありますね。1974年の七夕豪雨では、実際に氾濫して大きな被害が出ました。あの後、大谷川放水路という新しい水路が作られて、今では東静岡駅の近くまで水を逃がせるようになっています。
波音ちゃん:なるほど、今でもそうやって備えてるんですね。昔もそういう治水対策ってあったんですか?
椿原さん:詳しい記録は少ないですが、おそらく江戸時代や戦国時代にも、何かしらの工夫はされていたと思います。津波や地震の記録は、お寺に残っていたりもします。例えば、日蓮宗の海長寺には室町時代の津波被害の記録が残ってるんですよ。
波音ちゃん:それは貴重ですね!水害とどう向き合ってきたかが分かれば、地域の強さや知恵が見えてきそうです。
椿原さん:まさにその通り。災害の記録と人々の知恵、それを知ることは、これからの防災にもつながります。
波音ちゃん:椿原さん、また何かわかったらぜひ教えてくださいね!
椿原さん:はい、こちらこそ。また次の散歩でお会いしましょう。
【観光案内ガイド風】
ようこそ!清水へ!
ここ清水の旅は、巴川の河口から始まります。歩いていると気づくかもしれません。あらゆる道が、まるで吸い寄せられるように集まってくる場所、それが巴川の河口部なんです。
実はこの場所、古代から現代にいたるまで、交通と流通の結節点として重要な役割を果たしてきました。旧東海道、海沿いの150号線、甲斐の国から続く道、そして「海の東海道」とも言える船の航路まで──すべてがこの場所を目指して交差しています。だからこそ、かつては江尻城もこの地に築かれました。
さあ、そこから巴川をさかのぼって、清水銀座の方へと歩いていきましょう。銀座通りに入ると、目を引くのは鯨のモニュメント。実はこれ、江戸時代の問屋「寺尾家」の跡地なんですよ。寺尾家は、今川家の時代から地域の商業を支えてきた名家。そんな歴史が、今もこの街の空気に溶け込んでいます。
そのまま東へ歩いていくと、鍛冶町や辻町といった、かつての職人たちの町が続きます。ここは、江尻宿の一部。昔ながらの建物や、小さなお寺が点在する静かなエリアです。ひとつひとつのお寺には、それぞれ異なる歴史が刻まれていて、歩くたびに新しい発見があります。
ところで、巴川といえば、水害もこの土地の記憶に刻まれています。1974年の七夕豪雨では、川が氾濫し大きな被害が出ました。それをきっかけに、大谷川放水路という新しい水路が造られ、今では東静岡方面に水を逃す仕組みが整っています。
歴史をひもとくと、室町時代には地震と津波の記録もありました。清水の人々は、自然の脅威と共に生き、そして克服してきたのです。
この土地を歩くことは、過去と今、そして未来を感じる旅。どうぞ、清水の歴史と文化の重なりを、五感で味わっていってください。
Welcome to Shimizu!
Our journey begins at the mouth of the Tomoe River—a place where roads, stories, and centuries converge.
You might notice as you walk: this area feels like a grand junction, where roads seem to naturally gather. And it's no coincidence. Since ancient times, this riverside has been a critical point of transport and trade.From the old Tokaido Road to Route 150 that hugs the coast, from the mountain paths of Kai Province to the “Sea Tokaido” route for ships—everything leads here. That’s why the old Ejiri Castle once stood at this very spot.
Let’s walk upstream now, toward the Shimizu Ginza shopping street.There, you’ll spot a striking whale monument. That’s not just public art—it marks the site of the historic Terao family, who were merchants and shipping agents during the Edo period. Their roots trace back even to the Imagawa clan, and their legacy still echoes in the air of this neighborhood.
As we stroll eastward, we’ll pass through places like Kajicho and Tsujicho—once artisan districts within the old post town of Ejiri. The area is dotted with charming temples, each holding its own quiet history. If you take the time to explore, every alley reveals something new.
But Shimizu’s story isn’t just peaceful strolls and commerce.The Tomoe River has brought both blessings and challenges. In 1974, the Tanabata Torrential Rain caused devastating floods. In response, the Otani Floodway was constructed, channeling excess water away toward the East Shizuoka area to prevent future disasters.
Historical records even describe earthquakes and tsunamis dating back to the Muromachi period. The people of Shimizu have always lived with nature’s power—and found ways to endure and adapt.
To walk through Shimizu is to travel through time—where past and present whisper to each other in every street and stone.
Take your time. Let Shimizu's layered history and culture speak to you.
【放送内容のテキスト文面】
おっはの~ん。
清水港擬人化キャラクター七海波音です。
第一回 ぶらっと清水、始まります。
清水のいろんな場所をぶらっと歩きながら、素敵な魅力を発見して、お伝えしていきます。
この番組は、
清水をみんなで盛り上げたい、
するが企画観光局、
魅力ある清水をつくる会、
鈴与グループ、
清水港振興の提供でお送りいたします。
今日のお散歩のスタートは、また巴川まで戻ってまいりました。
前回のお話では、清水港は重要な物流の拠点として考えられていたということがわかりました。
椿原さん、巴川河口部の近辺を歩いているときに思ったのですが、ここっていくつかの道、車が通るような道路が交わっているジャンクションみたいになっていませんか。
清水港周辺の道路は、昔からこんな感じで道が集まっているところだったんでしょうか。
はい、地図を見てみるとよくわかるんですけれども、江戸時代、それからその前の東海道といいますかね、旧東海道ですけども、西から来ると、安倍川を超えると、ものすごくまっすぐに東に向かっています。
これは奈良時代の東海道をずっと継承をしていると思うんですけども、なるべくまっすぐに平野部を結んでいって、巴川の河口部にぶつかって、海の海浜部をね、東側に向かうようになってるんですけども。
ちょうどその巴川の河口部分、そこにですね、旧東海道もぶつかるんですけども、今で言ったら、150号線、浜松からずっと海沿いを来てる道ですよね、その道も三保半島の付け根のところから北上をして、やっぱりさっき言いました、巴川の河口部で一緒になってますよね。
それから、以前の話でも出ましたけども、はい、河口部はすぐ、200メーターから300メーターぐらいですか、そこのところに江尻城をつくったりということで、そこをめがけて、甲斐の国からの道、それもめがけてきてますよね。
もちろん、海の東海道、それも、清水港、江尻港をめがけてきてますので、やっぱり巴川の河口部周辺に港が作られていますので、巴川の河口部っていうのは、もう本当に古代、中世、江戸時代、現代まで、道の集まる結節点として見ていいんじゃないかなっていうふうに僕は考えてます。
古代、中世の時代から、巴川を目がけて道が作られてきたんですね。
東海道や旧東海道150号線や、山梨の甲斐の国からの道路が交わっていて、さらに海の東海道も、江尻港をめがけてやってきたりと、巴川河口部は、陸路においても、水路においても重要なポイントだったんですね。
さぁ、水神さんの話から始まり、またフェルケール博物館のあたりまで戻ってきてしまいました。
今度は巴川をさかのぼって、清水駅の方まで、お散歩してみましょう。
清水銀座商店街までやってまいりました。
椿原さん、先ほどまでは清水銀座より南エリアの清水の地域についてのお話をしていただきましたが、清水銀座周辺や清水駅がある辺りは、どのような地域だったんでしょうか。
はい、今の清水銀座のところに寺尾家跡っていうのかな、石碑が立ってますけども、大きな鯨のモニュメントと一緒に、確かあると思うんですけども、そこが寺尾家の跡になります。
はい、江戸時代の江尻宿の代表者、問屋さんですね。
今川家の時代に清水港で廻船問屋として働いていた小柳津藤次郎と、江戸時代に江尻の地域で商人のための宿を営んでいた寺尾家のお話がありましたね。そのお話にでてきた寺尾家は、この清水銀座の辺りにあったんですね。
この鯨のモニュメントは、通るたびに目にしていましたが、しっかり見たことはありませんでした。寺尾家の跡地だったとは驚きです。
では、もう少し、清水駅の方に向けて歩いてみましょうか。
ここに英国製生地って書いてありますけども、そこの角を曲がって、はい、東にずっと行きますと、鍛冶町とかね、昔の職人の町がずっと続いていきますね。
今のJRの清水駅を超えると、辻の町になるんですけども、その辺りまでが江尻の宿場になります。
面白いのはね、この江尻の宿場って、お寺が非常に多いですよね。
ちょうど街道から数十メートル参道が続いて、いくつもお寺が並んでますね。
お寺を一つ一つみていきますと風情があるし、歴史的なお寺もいっぱいあります。
また、別の機会に歩いてみたいですよね。
確かに。普段はあまり気にしていませんでしたが、意識しながら歩いていると、いくつかお寺があることに気が付きました。
それぞれ、どんな理由で建てられたのか、清水の歴史を紐解きながらお散歩するのも楽しそうですね。
話は変わりますが、巴川のことで気になっていることがあります。
巴川って、たくさん雨が降ると、水位が上がって、もう少しで溢れちゃいそうと不安に思うことが何度かありました。
実際、七夕豪雨なんかで氾濫して、周辺地域にかなりの損害が出たと聞いたことがあります。
文明の進んだ現代でも氾濫の危険がある巴川ですが、戦国時代とか江戸時代では、さらにその危険があったんではないでしょうか。
昔はそういった災害に対して何か対策がされていたんですか。
この前も台風の15号でしたっけ、あのときにやっぱり河川がする巴川が氾濫したりとかして、水害が出てますけども、よくよく考えてみますとね、あの巴川、七夕豪雨ですか、1974年でしたよね、あの洪水があったときに工事をして、今の巴川から河を分けて、大谷川の放水路って言われてる工事を作ってますよね。
それが今、ものすごく東静岡駅の横に深い水路を作って、水を逃がすようにしてますけども、ああいったですね、巴川とそれから安倍川をの氾濫を防ぐ治水工事、細かく見ていけば、何かしら痕跡っていうのは、どこかに残ってるんじゃないかなっていうふうには、思います。
おそらくは、現在まで、そういった治水工事ってのやってますから、戦国時代、それから、江戸時代にはもっと、河川の氾濫とかっていうのは深刻にあったと思いますのでね、何かしら、そういった工事ってのは、やってるんじゃないかなとは思いましたね。
現代でも、巴川の氾濫から地域を守るために、大家の放水路を新しく作って、巴川の流水量を減らす工夫したり、東静岡の水を逃がすための水路を作って備えたりしているので、昔にもそういった水害を防ぐような努力をしていたのではないかと思います。
そういえば、巴川の水害というと、先ほど言っていた七夕豪雨がよくイメージされますが、それ以前、中世の時代や、江戸の時代には、そういった、巴川の水害があったという資料は残っていたりするんでしょうか。
地震の記録とかはあるんですけども、水害、津波の記録とかありますね。
慶長だったかな、確かに海長寺っていうお寺、日蓮宗のお寺が清水にあるんですけども、そこに室町時代の、地震とそれに伴う津波の記録が文書として残ってましたね。
かなり大規模な津波が来て、壊滅的な状況になったっていうのは確か書かれていたと思いました。
自身による津波の記録は残っているんですね。
でも、七夕豪雨や、2022年の台風のように大雨が降って、巴川が判断したという記録はないんですかね。
実は巴川は治水に優れていて、地形的に周辺の海も安定しているので、氾濫しにくい川だったということはありませんかね。
はい、近年になって、これだけ災害とかでやっぱありますから、もっと詳しく調べていけばねあるんじゃないかなって思いますね。
おそらくそれも地域の歴史、本当に重要な部分だと思いますのでね。
はい、自然とどういうふうに戦ってきたかっていうかね、そういうのをちょっと調べてみたいと思いますね。
そうすればね、また清水っていう地域がね、何に強くて何に弱いかとかね、そういうのをまたどういうふうに利用してきたのかとか、克服してきたのかっていうものがわかってくると思いますのでね。
そうですね。
過去の災害の記録とそれに対する人々の対応がわかれば、これからどんなところで災害が起きやすいのか予想できたり、備えたりできますもんね。
椿原さん、何か巴川の水害の歴史についてわかったことがありましたら、また教えてくださいね。
はい、ありがとうございました。
あっという間にお時間が来ましたので、楽しいお話もここまで。
来週もまたお楽しみにです。
この番組は、
清水をみんなで盛り上げたい、
するが企画観光局、
魅力ある清水をつくる会、
鈴与グループ、
清水港振興の提供でお送りいたしました。