Hello! Today, we’re going to explore the history of Shimizu, starting with the site of Ejiri Castle, which once stood where Ejiri Elementary School is today. This castle was built by the famous warlord Takeda Shingen, and it served as a base for his naval forces. One might wonder what Shimizu would have been like if Takeda had succeeded in ruling Japan.
Takeda Shingen had plans to make Ejiri Castle his capital instead of Sunpu. One reason for this was its strategic location. In modern terms, the proximity of the Shimizu Interchange to the port, just five minutes by car, is a significant advantage over other ports. Shimizu’s geographical strength has remained unchanged from the Sengoku period to the present day.
Takeda’s acquisition of Suruga Province was largely driven by his desire to secure a route to the Pacific Ocean. He enlisted the naval forces of the Imagawa and Hojo clans, building his own navy and using Shimizu and Ejiri as key bases. In this way, Shimizu’s port played a vital role as a maritime hub.
Exploring the history from a maritime perspective offers a fresh lens through which to understand Japan’s past. Japanese history often focuses on land-based events, but by looking at the naval aspects, we gain a deeper appreciation of the country’s development.
You may have heard that there is a plot of land in Shimizu that belongs to Yamanashi Prefecture. This dates back to the Edo period, when tribute rice from Kai Province was transported to Shimizu Port and stored in warehouses there. Although it has no direct connection to Takeda Shingen, it’s an interesting historical remnant.
Takeda Shingen’s rule lasted for about 14 years, from 1568 to 1582. Despite its short span, it was a period of great upheaval, and Shimizu played a role during those tumultuous times.
As for the difference between a navy and pirates in the Sengoku period, they were quite similar. The naval forces often doubled as merchants in peacetime and warriors in times of conflict. Unlike modern perceptions of pirates, they were more akin to warriors of the sea.
<今日のお散歩まとめ>
今日のお散歩は、江尻城跡地でもある江尻小学校からスタート。
椿原さんと共に、前回に引き続き散歩を続ける。
江尻城は武田信玄が築城した水軍の城で、清水らしい城であることを学んだ。
椿原さん曰く、もし武田が天下を取っていたら、清水は首都の可能性があった。
道路の重要性を重視し、最近では中部横断道によって長野や山梨の物資が清水に運ばれている。
清水インターから清水港までの距離は他の港に比べて短いという利点がある。
戦国時代と同様に、現在も清水の地理的な強みが続いている。
武田信玄が駿河国を手に入れた際、海運や水軍を手に入れるために水軍を編成。
岡部氏や後北条氏の水軍をスカウトし、自分の水軍を編成。
伊勢から水軍をスカウトし、清水と江尻を水軍の基地として使用。
太平洋海運を駿河や伊勢を通じて京都へ繋ぐための道も手に入れる。
日本の歴史は陸地中心で語られがちだが、海の歴史にも視点を向ける必要がある。
清水には山梨県の住所地があり、これは江戸時代の年貢米を清水港まで運び入れていたため。
武田信玄の影響とは直接関係はない。
武田支配の時代は1568年から1582年までの約14年間。
武田時代の清水は非常に激動の時期だった。
戦国時代の海賊と水軍はほぼ同じ意味で、商人と戦士の両面性を持っていた。
壊血病と清水のみかんの生産は関係がないが、ワインなどは壊血病対策に使われた可能性がある。清水には山梨県の土地がある!なんで?!
【提供】
いつかきっと会えるよね、鈴与グループ。
日の出で遊ばう、清水港振興。
静岡商工会議所の、魅力ある清水を創る会。
静岡の観光振興を推進する、公益財団法人するが企画観光局。
[協力]きものとしずおかさま
【ぶらっと清水 第5回】
七海波音: さあ、今日のお散歩のスタートは、先週のゴール地点でもある「江尻城跡地」、現在の江尻小学校からです。今日もフェルケール博物館の椿原さんと一緒にお散歩していきます。前回は、江尻城が武田信玄によって築かれた水軍の城だということを学びましたが、もし武田が天下を取っていたら、清水はどうなっていたと思いますか?
椿原さん: そうですね、武田信玄は駿府ではなく、江尻城を拠点にしようとしていたようです。彼が重要視していたのは交通の便でした。現代で言えば、中部横断道ができたことで、長野や山梨の物資が東京や横浜ではなく清水に運ばれるようになってきたことに似ています。清水インターから港まで車で5分もかからないという利便性は、他の港にはない大きな利点ですよね。
七海波音: 戦国時代も現代も、清水が持つ地理的な強みは変わらないということですね。
椿原さん: その通りです。武田信玄が駿河国を手に入れた理由の一つは、太平洋の海運ルートを手に入れることでした。甲斐の国(現在の山梨県)は内陸で港がないため、駿河を手に入れることで海にアクセスできるようになりました。彼は今川氏や後北条氏の水軍をスカウトし、自分の水軍を編成し、清水と江尻をその拠点として利用しました。
七海波音: 海運といえば、学校で学ぶ歴史は陸地に焦点を当てがちですが、海の視点で歴史を考えるのは新鮮で面白いですね。
椿原さん: そうですね。日本の歴史には陸地の話が多いですが、これからはもっと水軍や海の歴史に注目しても面白いと思います。
七海波音: そういえば、清水には山梨県の土地があると聞いたことがありますが、これは武田信玄の影響ですか?
椿原さん: それは江戸時代の名残ですね。当時、甲斐の国の年貢米を富士川を通じて清水港まで運び、その米を保管するための倉庫が山梨県の所有地として残っています。残念ながら、武田信玄とは直接関係はないですね。
七海波音: なるほど、一つ謎が解けました!ところで、武田支配の時代はどのくらい続いたのでしょうか?
椿原さん: 武田信玄が駿河を攻めたのが1568年、武田家が滅亡したのが1582年なので、約14年ほどですね。
七海波音: 清水もその短期間に激動の時代を経験したんですね。最後に、水軍と海賊の違いについて教えていただけますか?
椿原さん: 戦国時代の水軍と海賊はほぼ同じ意味で、普段は商人として活動し、戦時には戦士としての役割を担っていました。現在の「海賊」とは違って、悪者ではなく、むしろ海の武士のような存在でした。
七海波音: なるほど、詳しい話がもっと聞きたくなりますね!ありがとうございました。また来週も楽しみにしています。
【観光案内ガイド風】
こんにちは!今日は清水の歴史に触れながら、散策していきましょう。スタート地点は、かつての「江尻城跡地」、現在の江尻小学校です。ここにはかつて、戦国時代の名将、武田信玄が築いた城がありました。江尻城は、武田水軍の拠点としても知られています。実際、もし武田信玄が天下を取っていたら、清水はどうなっていたのでしょうか。
武田信玄は、駿府ではなく、この江尻城を拠点にしようと考えていました。理由の一つは、交通の便が非常に良かったからです。現代で言うと、清水インターから港まで車で5分という距離は他の港にはない利点ですよね。清水の地理的な強みは、戦国時代も現代も変わらないのです。
また、武田信玄が駿河国を手に入れた理由の一つは、太平洋の海運ルートを確保するためでした。彼は今川氏や後北条氏の水軍をスカウトして、自分の水軍を編成しました。そしてその拠点として、清水と江尻を利用したのです。このように、清水の港は海運の要所として重要な役割を果たしていました。
海の歴史に目を向けると、さらに新しい発見があります。日本の歴史はどうしても陸の話が中心ですが、海運や水軍にも注目すると、歴史がさらに深まります。
ところで、清水には山梨県の土地があるという話を聞いたことがあるかもしれませんが、これは江戸時代の名残です。当時、甲斐の国から清水港まで年貢米を運び、そこで倉庫に保管していたことに由来します。武田信玄とは直接の関係はありませんが、歴史の一部として興味深いですね。
武田信玄の支配は1568年から1582年までの14年間続きました。その短期間に、清水も激動の時代を経験しました。
Hello! Today, we’re going to explore the history of Shimizu, starting with the site of Ejiri Castle, which once stood where Ejiri Elementary School is today. This castle was built by the famous warlord Takeda Shingen, and it served as a base for his naval forces. One might wonder what Shimizu would have been like if Takeda had succeeded in ruling Japan.
Takeda Shingen had plans to make Ejiri Castle his capital instead of Sunpu. One reason for this was its strategic location. In modern terms, the proximity of the Shimizu Interchange to the port, just five minutes by car, is a significant advantage over other ports. Shimizu’s geographical strength has remained unchanged from the Sengoku period to the present day.
Takeda’s acquisition of Suruga Province was largely driven by his desire to secure a route to the Pacific Ocean. He enlisted the naval forces of the Imagawa and Hojo clans, building his own navy and using Shimizu and Ejiri as key bases. In this way, Shimizu’s port played a vital role as a maritime hub.
Exploring the history from a maritime perspective offers a fresh lens through which to understand Japan’s past. Japanese history often focuses on land-based events, but by looking at the naval aspects, we gain a deeper appreciation of the country’s development.
You may have heard that there is a plot of land in Shimizu that belongs to Yamanashi Prefecture. This dates back to the Edo period, when tribute rice from Kai Province was transported to Shimizu Port and stored in warehouses there. Although it has no direct connection to Takeda Shingen, it’s an interesting historical remnant.
Takeda Shingen’s rule lasted for about 14 years, from 1568 to 1582. Despite its short span, it was a period of great upheaval, and Shimizu played a role during those tumultuous times.
As for the difference between a navy and pirates in the Sengoku period, they were quite similar. The naval forces often doubled as merchants in peacetime and warriors in times of conflict. Unlike modern perceptions of pirates, they were more akin to warriors of the sea.
おっはの~ん。
清水港擬人化キャラクター七海波音です。
ぶらっと清水始まります。
この番組は、
いつかきっと会えるよね、鈴与グループ。
日の出で遊ばう、清水港振興。
静岡商工会議所の、魅力ある清水を創る会。
静岡の観光振興を推進する、公益財団法人するが企画観光局。
の提供でお送りいたします。
今日のお散歩のスタートは、先週のゴール、江尻城跡地でもある江尻小学校よりスタートです。
前回に引き続き、フェルケール博物館の椿原さんと、ぷらっとお散歩していきます。
前回は、江尻城は武田信玄が築城した水軍の城とも呼ばれる、清水らしいお城であることを勉強しました。
椿原さん、もし武田が天下を取っていたら、清水は一体どうなっていたんでしょうか。
はい、駿府ではなくて、江尻を江尻城を首都に考えていたってのは、先ほども言いましたように、道、それを非常に重要視していたっていうことだというふうに思ってます。
それを考えると、この二、三年ですけども、中部横断道、それができたことによって、長野とか、それから山梨の物資を清水に運ぶことができるっていうか、東京とか横浜ではなくて清水に運んでくるっていうことを、より考えるようになってきたと思います。
それは、今考えると、例えば清水のインター、そこから清水の港までが車で5分もかかんないですよね。
それって、他の港にはない利点っていいますかね、だと思います。
だから、戦国時代に武田信玄が考えていたことと、それと全く同じことが、平成とか令和の時代に起こっているっていうことじゃないかなというふうに思います。
ですから、清水港、江尻港だったかもしれないすけども、その重要性というのは、戦国時代、それから江戸時代を通じてあまり変わっていないといいますか、今でも同じように引き続いているんじゃないかなというふうに思ってます。
なるほど、戦国時代も今も、清水の場所が持つ特徴と強みは変わらないわけですね。
それと、もう一つ重要なのは、これから何回もお話すると思うんですけども、武田信玄が駿河の国を手に入れたときに、水軍を作ってます。
元々、甲斐の国ってのは山国ですので、港持ってないですよ。
海持ってないですよね。
駿河の国で今川氏を滅ぼして、親戚だったじゃないすか、それを滅ぼしても、駿河の国を手に入れたっていうのは、京に上る途中にあるってのも一つの大きな理由だったんですけども、もう一つは太平洋海運を手に入れることができる、それがもう一つの目的だったってことですね。
ですので、武田信玄がすぐに取りかかった政策として、水軍編成、それは一つには今川の水軍ですよね、岡部ですね。
それとか、あと後北条の水軍であったりとかというのもスカウトして、自分の水軍を作っています。
それからもう一つ重要なのは、今川と後北条の水軍を手に入れると同時に、当時、土屋姓を名乗っていたんですけども、元々は今川氏の水軍の岡部ですね。
それを土屋に名前を改名させて、その土屋を通じて伊勢の水軍、向井とか小浜という水軍ををスカウトして、駿河の国に連れてきてます。
そして、武田水軍を編成をして、その水軍基地として清水、それから江尻を使っています。
そういう意味でも太平洋海軍といいますかね、それを手に入れたというのは、駿河、それから伊勢を通じて京都へも繋がったという物流の道といいますかね、それも手に入れたということになります。
これについてはね、日本の歴史ってどうしても陸地の歴史になりますので、海の視点ってなかなかないものですから、これからね、もっともっと、陸の歴史とともに水軍とか海の歴史というのを、視点を持っていけば、もっといろんな面白い話ができるんじゃないかなっていうふうに思います。
確かに学校で習った勉強では、陸の視点での歴史ばかりですね。
清水から見た、海も交えた歴史というのは、非常に新しい視点で面白いですね。
そういえば、今ふと思ったんですけど、清水にはすごく不思議な場所がわかりますよね。
清水区内なのに、山梨県の住所の土地が、しかも結構広くて、スケートリンクくらいの広さの2060平方メートルもあるとか、あれって、やっぱり武田支配の時代の影響なんでしょうか。
確かに今でも、山梨県庁の所有地が、博物館の近くですね、博物館と巴川の間ぐらいって言いますかね巴川に近いところに残ってます。
ただし、これはですね、江戸時代に入って、甲斐の国の年貢米、それを富士川を通じて、川を通じて川船で下ろして、清水の港まで持ってきて、そこの場所に荷揚げをしていた、荷揚げをして甲斐の土地っていいますかね、そこの場所にあった作った蔵に納めていたものですから、その蔵のあった場所が今でも山梨県庁の所有地として残っているということになります。
ですので、残念ながら、武田信玄の関係の話といいますか、そういうものとはちょっと違うということです。
そういうことかあ。
謎が一つ解けました。
ちなみに、この武田支配の時代というのは何年くらい続いたんでしょうか。
武田信玄が市駿河の国を攻めたのが永禄11年、1568年ですよね。
それから武田家が滅んだのが天正の11年ですね。
武田、天目山で滅んでおりますので、天正の11年1582年のことですよね。
ですので、年代からいくと、20年もないですね。十数年の話ですよね。
その中でも戦国時代の後半で、非常に戦国大名の浮き沈みといいますかね、それが盛んに起こった時期ですので、非常に濃い時間といいますか、その十数年が非常に濃い時間になっていたと思いますね。
ですので、その時期の武田氏、それから駿河の国、清水の港を調べたりとか、お話をしたりとかっていう非常に内容の濃いものになってくると思いますね。
じゃあ、13、4年、激動の時代に、清水は武田の時代だったんですね。
それと、そもそもなんですけど、水軍と海賊の違い、どういう部分なんでしょうか。
はい、よく聞かれるんですけども、海賊と水軍の違いって何ですかって言われるんですけども・・・ぶっちゃけ話になるんですけども、中世の時代の海賊と水軍っていうのは、ほぼ同じ意味合いだ。同じ意味だっていうふうに考えていただいていいと思います。
というのは、今、海賊というと、ソマリアの海賊とかって言って、ものすごく他の船を捕まえて、金品だけじゃなくて人の命まで取ってしまうような悪っていう意味で捉えてしまいますけども、戦国時代の海賊というのは、ほぼ水軍と、同じ意味合いを大きくは持っていまして、悪という意味ではなくて、普通のときには商人として海を操る、で、戦も行うっていうような両面性を持っていたっていうふうに考えていただいていいと思います。
必ずしも、海賊イコール悪っていうことではなくて、商人とそれから戦をする人、かえって海賊というよりも水軍、海の武士、そういうふうに考えてもらった方がいいんじゃないかなっていうふうに思います。
詳しくはね、また海賊と水軍について、清水の海賊と水軍について、ものすごく長くなっちゃうかもしれないですけどね、非常に面白い話なので、話をしていきたいなというふうに思います。
ぜひお願いします。
お話を聞けば聞くほど、いろんな話に繋がりまして・・・海賊といえば、ワンピースという漫画で壊血病というビタミン不足からなる病気のことを学んだんですけど、もしかして、清水でみかんをたくさん作っているのは、壊血病対策にみかんを持たせるためとかですか。
残念ですが、関係ないです。
それよりも壊血病に関係するってのはどうなんだろう。
酒とかの方があるのかなあ。
外国の船が酒を、あの持ってたっていうのは、水を持ってると腐っちゃうけど、酒だったら腐らないっというのもありますし、それからワインとかだったらブドウですからね。
それでちょっと壊血病に効いたのかな?
僕もちょっと詳しいことわからないんですけども、みかんよりもワインとかそういうの考えた方がいいと思いますけども、ただね、日本で海賊はワイン持ってなかったでしょうからね。
でも、ちょっと僕を調べてみたいと思います。
はい、ありがとうございました。
とても勉強になりました。
さて、あっという間に時間が来ましたので、楽しいお話もここまで。
来週もまたお楽しみにです。
この番組は、
いつかきっと会えるよね、鈴与グループ。
日の出で遊ばう、清水港振興。
静岡商工会議所の、魅力ある清水を創る会。
静岡の観光振興を推進する、公益財団法人するが企画観光局。
の提供でお送りしました。