Hello everyone! Today, let's explore the rich history of Shimizu, starting with the story of Ejiri Castle. While you may have heard of the famous Sunpu Castle in Shizuoka, did you know that Shimizu also had its own castle, called Ejiri Castle? The main keep of Ejiri Castle was located where Ejiri Elementary School now stands, covering an area of about 400 meters.
The name Ejiri Castle comes from the geographical location. The Tomoe River divided the region, with the northern area called "Ejiri," and the southern areas known as "Irie" and "Shimizu." Since the castle was built on the north side of the river, it was named Ejiri Castle.
This castle was built by none other than the famous warlord Takeda Shingen. In the 1570s, after conquering the Suruga Province and driving out the Imagawa Clan, Shingen chose Ejiri Castle as his base, rather than Sunpu. The reason was strategic: the Sea Route Tokaido passed through Ejiri’s port, connecting Kansai to Kanto, and the Minobu Road also intersected here, making it a key location for both land and sea routes.
Ejiri Castle also had a tall watchtower called the Hyaku-jo Yagura or "The Hundred Watchtower". Atop this tower was a plaque with the characters "Kankoku," meaning "Observing the Nation." This was written by Sawaiken Souon, a monk with connections to Oda Nobunaga. Unfortunately, the tower and its plaque were destroyed during World War II bombings.
While there are no physical remains of Ejiri Castle today, you can still visit Koshira Shrine, where a sign marks the area as part of the old Ejiri Town. There’s also an area called Takaramachi ("Treasure Town"), where a legend tells of treasure buried when the castle was no longer in use. It’s a fascinating spot for history enthusiasts to explore!
<今日のお散歩まとめ>
江尻城は現在の江尻小学校の場所にあった。
城の築造者は武田信玄。
江尻城は駿河国の拠点として築かれた。
武田信玄が江尻城を選んだ理由は、東海道と海の東海道に近かったため。
巴川は江尻城の重要な防衛線で、後に河川改修が行われた。
江尻城は「水軍の城」とも呼ばれ、重要な港として機能していた。
江尻城には「観国」と呼ばれる櫓があり、織田信長と関係のある沢彦宗恩が書いた額がかかっていた。
戦争で観国の額は失われた。
江尻城の遺構は現在残っていないが、地名や痕跡が江尻町に残っている。
小柴神社や宝町に城の痕跡や伝説が残されている。
江尻城跡は現在の二の丸町周辺に広がっていた。
【提供】
いつかきっと会えるよね、鈴与グループ。
日の出で遊ばう、清水港振興。
静岡商工会議所の、魅力ある清水を創る会。
静岡の観光振興を推進する、公益財団法人するが企画観光局。
【ぶらっと清水 第4回】
七海波音: さぁ、今日のお散歩は清水駅前交差点からスタートです。前回に引き続き、フェルケール博物館の椿原さんと一緒に歩いていきます。ところで、静岡のお城といえば駿府城ですが、清水にも「江尻城」というお城があったって聞きました。どこにあったんでしょうか?
椿原さん: そうですね、江尻城は現在の江尻小学校の場所にありました。本丸が小学校の敷地内にあって、大きさは大体400メートルくらいでしたね。
七海波音: 小学校があった場所にお城があったなんて、知らなかったです。すごく気になりますね。
椿原さん: そうでしょう?そして「江尻城」と呼ばれているのは、巴川を境にして、北側が「江尻」、南側が「入江」、さらに南が「清水」だったためです。江尻城は北側にあったので、その名がついたんですよ。
七海波音: なるほど。それで「清水城」ではなく「江尻城」なんですね。
椿原さん: その通りです。そして築城したのは武田信玄です。彼が永禄11年(1570年代)に駿河国を手に入れ、今川氏を追いやった後、駿府を本拠地にするのではなく、江尻城を拠点にしました。
七海波音: どうして江尻を選んだんですか?
椿原さん: 良い質問ですね。それは海の東海道が江尻の港を経由して、関西から関東に繋がっていたことと、52号線にあたる身延街道が興津に出て、東海道と交差する地点でもあったためです。江尻城はその重要な拠点だったのです。
七海波音: なるほど、やっぱり海と交通が関係していたんですね。他にも何か面白い話はありますか?
椿原さん: そうですね。江尻城には「百城の櫓」と呼ばれる高い見張り台がありました。そこには「観国」と書かれた額が掲げられていて、国を見渡すためのものだったんです。この額を書いたのは、織田信長とも交流のあった沢彦宗恩という僧侶です。
七海波音: その額は今でも残っているんですか?
椿原さん: 残念ながら、太平洋戦争中の空襲で焼失してしまいました。もし残っていたら貴重な文化財になっていたでしょうね。
七海波音: 本当に残念ですね。今、江尻城の遺構は見られないんですか?
椿原さん: 江尻城の遺構は残っていませんが、小柴神社の境内に「ここが江尻町の跡」という看板が残っています。また、宝町という地名があり、そこには財宝が埋められたという伝説も残っています。
七海波音: それは面白いですね。江尻城があった場所をじっくり見てみたくなります。
【観光案内ガイド風】
みなさん、こんにちは!今日は清水の歴史散策を楽しんでいきましょう。まずは、江尻城の話から始めたいと思います。ご存知かもしれませんが、静岡には有名な駿府城がありますよね。でも実は、ここ清水にも「江尻城」というお城があったんです。では、その江尻城はどこにあったのかというと、現在の「江尻小学校」の場所に本丸がありました。大きさは約400メートルほどだったと言われています。
江尻城という名前の由来についても面白いですよ。江尻城は、巴川を境にして、北側の「江尻」と呼ばれる地域にあったため、その名が付けられました。一方、川の南側は「入江」、そしてそのさらに南が「清水」と呼ばれていたんです。
この江尻城を築いたのは、戦国時代の有名な武将、武田信玄です。1570年代、信玄が駿河国を手に入れた際、今川氏を追いやった後、駿府ではなく、この江尻城を拠点にしました。なぜ駿府ではなく江尻城を選んだのかというと、海の東海道が江尻の港を経由して、関西から関東へと繋がっていたこと、さらに52号線にあたる身延街道が興津に出て、東海道と交差していたからなんです。この地は陸路と海路の要所でした。
さらに、江尻城には「百城の櫓」と呼ばれる高い見張り台がありました。その上には「観国」と書かれた額が掲げられていて、これは「国を見渡す」という意味です。この額を書いたのは、織田信長とも交流のあった僧侶、沢彦宗恩です。しかし残念ながら、この額は太平洋戦争中の空襲で焼失してしまいました。
現在では江尻城の遺構は残っていませんが、もし興味があれば、「小柴神社」に行ってみてください。そこには、「ここが江尻町の跡」という看板が設置されています。また、近くに「宝町」という地名があり、そこには財宝が埋められているという伝説も残っています。歴史好きの方にはぜひ訪れていただきたい場所です。
Hello everyone! Today, let's explore the rich history of Shimizu, starting with the story of Ejiri Castle. While you may have heard of the famous Sunpu Castle in Shizuoka, did you know that Shimizu also had its own castle, called Ejiri Castle? The main keep of Ejiri Castle was located where Ejiri Elementary School now stands, covering an area of about 400 meters.
The name Ejiri Castle comes from the geographical location. The Tomoe River divided the region, with the northern area called "Ejiri," and the southern areas known as "Irie" and "Shimizu." Since the castle was built on the north side of the river, it was named Ejiri Castle.
This castle was built by none other than the famous warlord Takeda Shingen. In the 1570s, after conquering the Suruga Province and driving out the Imagawa Clan, Shingen chose Ejiri Castle as his base, rather than Sunpu. The reason was strategic: the Sea Route Tokaido passed through Ejiri’s port, connecting Kansai to Kanto, and the Minobu Road also intersected here, making it a key location for both land and sea routes.
Ejiri Castle also had a tall watchtower called the Hyaku-jo Yagura or "The Hundred Watchtower". Atop this tower was a plaque with the characters "Kankoku," meaning "Observing the Nation." This was written by Sawaiken Souon, a monk with connections to Oda Nobunaga. Unfortunately, the tower and its plaque were destroyed during World War II bombings.
While there are no physical remains of Ejiri Castle today, you can still visit Koshira Shrine, where a sign marks the area as part of the old Ejiri Town. There’s also an area called Takaramachi ("Treasure Town"), where a legend tells of treasure buried when the castle was no longer in use. It’s a fascinating spot for history enthusiasts to explore!
おっはの~ん。
清水港擬人化キャラクター七海波音です。
ぶらっと清水始まります。
この番組は、
いつかきっと会えるよね、鈴与グループ。
日の出で遊ばう、清水港振興。
静岡商工会議所の、魅力ある清水を創る会。
静岡の観光振興を推進する、公益財団法人するが企画観光局。
の提供でお送りいたします。
さぁ、今日のお散歩のスタートは、清水駅前交差点からスタートです。
前回に引き続き、フェルケール博物館の椿原さんと、ぶらっとお散歩していきます。
そういえば私、全然知らなかったんですけど、静岡のお城といえば、駿府城ですが、清水にも江尻城というお城があったって聞きました。
はい、江尻城ってどこにあったと思いますか?
え?どこだろう?
江尻っていうから、やっぱり清水駅周辺のこの辺りですか?
江尻城は、今の江尻小学校を本丸として作られていました。
大きさが大体400mくらいはあったと思いますね。
小学校が、私、学区が違うから、全然知らなかったです。
ますます気になってきました。
早く見に行きましょう。
さあ、江尻城の跡地でもある江尻小学校にやってきました。
正門の向かって右に学校名、左側に本丸門。
すごいですね。
知らなかったです。
そういえば、なんで、清水城じゃなくて、江尻城なんですかね。
この江尻城については、なぜ江尻城と呼んだかというと、当時ですね、江戸時代よりも前の頃ですね、巴川を境にして、北側を江尻、それから南側を入江、もっともうちょっと南側が清水になりますよね。
江尻城は巴川の北側にありましたので、江尻地域にあるお城ということで、江尻城という風にに呼ばれていました。
なるほど。
それで、江尻城っていう名前なんですね。
はい、次の質問ですけども、江尻城は誰が築造したと思いますか。
全然わかりません。
清水に有名な武将なんていませんよね。
誰なんですか。
はい元々ですね、この江尻町を作ったのは武田信玄になります。
武田信玄が永禄11年ですね。
1500、70年代から80年代ごろですか、それくらいに駿河の国を手を手に入れてますね。
今川を滅ぼすといいますか、追いやってしまったんですけども、そのときにですね、今川氏の本拠といいますかね、今川館は現在の駿府町のと同じ位置に、おそらくあったというふうに考えられているんですけども、武田家とすると、武田信玄はですね、駿府を武田家の本拠にするということは考えていませんでした。
どこを根拠にしたかというと、江尻城ですね。
江尻城を駿河の本拠として武田氏は考えて築城をしています。
なぜでしょうか。
山梨の方が攻め込まれにくそうなのに、わざわざ清水にするってことは、もしかして、海を使った何かがしたかったとか。
そうですね。
地図をね、見てみると、非常にわかるんですけども、まず東海道が江尻の宿場といいますかね、そこの近く、近くっていいますかそこを通っていること、それがまず第1の視点ですね。
それからもう一つは、海の東海道ですよね。
その海の東海道が、江尻の津といいますかね。
江尻それから清水の港を経由して関西から関東まで繋がっていたという。
海の東海道の拠点だったということですね。
それからもう一つ忘れてはいけないのは武田氏というのは、今の山梨県、甲斐の国を本拠としていますよね。その甲斐の国から駿河の国まで抜ける今で言ったら、52号線にあたる身延街道ですよね。
それが興津に出てきて、東海道や、それから海の東海道とに交わる拠点として、江尻城を重視をしていた。
そのために江尻城を築いたということになります。
なるほど、やっぱり海に関わることだったんですね。
はい、もう一つ気をつけておいていただきたいのはですね。
地図を見て、はい巴川をずっと追っていただきたいんですけども、巴川はかなり高橋からですね、それから河口部分にかけて、クニャクニャ曲がっていたのを、明治時代にそのクニャクニャを河川改修によってまっすぐにしているんですけども、はい、ずっとその巴川を追ってくると、今の静岡鉄道のあたりでクニャンと谷巴川が曲がっております。
南が流れを変えているんですよね。
ですから今の区役所であるとかドリームプラザであるとかそれからフェルケール博物館があるところですよね。
半島上に長く伸びているんですけども、文献を呼んでいくと、その部分については、戦国時代の終わりから江戸時代の初めから自然堆積によって伸びて出てきたんですよね。
ですので、究極的なことを言っちゃいますと江尻町のある場所から、ちょっと東側に行った部分、クニャンと巴川が曲がってる部分ですよね。
そこが、戦国時代から江戸時代初期の河口部分に当たります。
ですので、その河口部分に近いところに江尻城を作っていたということになります。
ですので、江尻城のことを水軍の城だというふうに言う方もいますけども、それが今言ったことが一つの故になります。
水軍の城ですか。清水っぽいですね。
それから一つで面白い文献が残ってるんですけども、はい、江尻城に百城の櫓があったっていうことが文献になってます。
百条の櫓、何十メーターに上るような櫓があったっていうんですけども、まだ江尻城の頃には天守閣というのは作られておりません。
ですので、物見の櫓の高いものがそこにあったっていうことなんですけどでしょうけども、その櫓の上にですね、観国っていう額がかけてあったというんですね。
その観国っていう字を書いた、観国っていうのは国を観察するっていうですね。
国を観察する国を観るっていう、それだけいろんな国を上から観ることができたっていう意味の額がかかっていたんですけれども、その中を書いたのが沢彦宗恩っていうお坊さんなんですけども、織田信長と知り合いで、岐阜という名前をつけたのが、その沢彦宗恩っていう方ですね。その人が書いた額がその櫓の上にかかっていた。
実を言うと、文献には、その観国という櫓が無くなってからっていいますかね、江尻城がなくなってからもそのまま、近くのお寺に残ってたっていうんですけども、残念ながら、太平洋戦争中の空襲で焼けてしまったっていう、もし残っていれば非常に良い文化財ですよね。
とっても残念ですね。
そういえば、お城っぽいものって見えないですけど、小学校の中に入らないと見えないんですか。
はい。江尻城を探したそうなんですけども、遺構は何も残っていなかった。ということを伺っております。
江戸時代から明治時代にかけて絵図とかみると綺麗に江尻城のあとが残ってますね。
それから写真でも江尻城の堀とかがね残ってる写真もあるものですからどこかしね、江尻町の痕跡ってあるんじゃないんでしょうかね。
未だに探してますけども、なかなか見つかっておりません。
そうなんですね。
どこに行っちゃったんでしょうね。
駿府城も発掘調査とかやってますし、江尻城も見つかったらいいな。
はい。それからですね、小柴神社の境内に行きますと、この地が江尻町の跡だよという看板がちゃんと残っておりますのでね、ぜひ皆さん行っていただきたいと思いますね。見ていただきたいと思いますね。
それから地名として、宝町という地名が残っています。
これ伝説なんですけども事情が使われなくなったときにここに、この宝町に財宝を埋めたという伝説も残っています。
皆さんね、ぜひ江尻城に行ったらですね、じっと目を凝らして、四方八方に伸びる道を凝視して道をよく見ていただきたいと思います。
そうするとこの江尻城のあった場所が高い。
その江尻城のある場所から周りを見ると、だんだんだんだん道が下ってるっていうか、低くなってるのがわかると思います。
ちゃんとお城ですので、平地の中でも高い場所、その場所を選んで作っているというのがわかると思います。
ぜひね、目を凝らしてみ見ていただきたいと思います。
あんまり高い場所のイメージがなかったですが、確かに、しっかり坂になってますよね。ちなみに、この江尻城、大きさってどれぐらいだったんですか?
小田原城とか、それぐらいの大きさがあったんでしょうか。
今、二の丸町ってのがあるんですけども、東海道っていいますかね、国道今の1号線ですよね。
そこまでの間ですから大体400メーターくらいの範囲、お城とするとどうでしょう?意外と思ってよりも江尻城って大きいなって思うんですけども、それくらいの範囲がお城として残ってるとあったと思いますね。
はい、ありがとうございました。
とても勉強になりました。
さて、あっという間に時間が来ましたので、楽しいお話もここまで。
来週もまたお楽しみにです。
この番組は、
いつかきっと会えるよね、鈴与グループ。
日の出で遊ばう、清水港振興。
静岡商工会議所の、魅力ある清水を創る会。
静岡の観光振興を推進する、公益財団法人するが企画観光局。
の提供でお送りしました。